帰国者プロフィール
〜身元未判明の父親(一世)に関する情報をお寄せください〜

連絡先:NPO法人フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC

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申立人顔写真

1.申立人氏名,性別

2.生年月日(年齢)  

3.申立人居住地

4.父親氏名(父の出身地)

当事の状況、手がかりとなる証拠

1.カトウ タツノ(パシータ)          Pacita Kato Rafanan 女

2.1926527(80)

3.ラウニオン州

4.カトウ ワイチ(三重)

父は、バギオやマンカヤン周辺で大工をしていた。1924年に結婚、4人の子をもうけた(女2、男2)が,現在生存しているのはタツノだけである。父は、1935年に死亡。タツノは父の知人として「オクオカ」という名の日本人を記憶している。

1.ヨシイ ルシータ                    

Lucita Yoshiy Casem 女

2.1933224(73

3.カガヤン州

4.ヨシイ トモユキ(広島)

父は、ルソン島北部ヌエバビスカヤで大工などをしており、教会などを建築していた。1926年に結婚、3人の子をもうけた(女1、男2)。父がバヨンボンのホテルで他の日本人(ミヤモト、ナガオ、ツバキなど)と共に写っている戦前の写真が残っている。父は、キリスト教徒として「トマス」というクリスチャンネームを持っている。1941年に死亡。

1. トウマ エルナネ                             Hernane Salazar 男

2. 193979日(67

3. アクラン州

4. トウマ ヒロシ不明)

エルナネは父の顔を知らない。しかしオリジナルの出生証明書の父の欄には「Hiroshi Toma, Japanese (トウマヒロシ 日本人)」の文字が読み取れる。父はイロイロで漁業を営み、1937年結婚、その後日本軍の情報員などをやっていた。家族は日本軍の命令でカピス(現バタン)へ行き、そこでエルナネが生まれた。

1.ヤマナカ イサベロ                      Isabelo Yamanaka 男

2.1929629日(77

3.バターン州

4.山中 宇一(神戸?)

父は大工でフィリピン人を使ってザンバレス各地で教会などを建築した。1916年に結婚、7人の子をもうける(女2、男5)。戦中、腎臓を患い、1944年に死亡。イサベロの所持する古い家族写真の裏には「山中宇一」と記載されている。父の父母の写真もあり。父のフィリピン名は「ホセ」。イサベロは父の友人に「ウエハラ」という写真家の日本人がいたことを記憶している。

1.金城 トヨジロウ                     Rodolfo Datinguinoo 男

2.1942513日(64

3.バタンガス州

4.金城 豊吉(沖縄)

父は戦前バタンガスで漁業を営んでいたという。1939年に結婚、4人の子をもうけた。戦後、トヨジロウは父母と姉とともに日本に強制送還させられ、沖縄の父の実家でしばらく暮らす。父の死後(1947年)、1955年に母に連れられてフィリピンに戻る。以後、父の国との絆は断ち切られた。父親の俘虜銘々票あり。

1.イワマ ユニス                           Eunice Iwama  Quiamco 女

2.1943112日(62

3.西ミサミス州

4.イワマ トゥイチ(横浜市ガヤク)

父は日本兵としてボホールを訪れ、日本人の経営するパン屋に滞在していた。1942年に結婚、ユニスをもうけた。戦中、父を乗せた軍の船はスリガオ沖で沈没したという。そのときユニスは母のお腹の中だった。戦後母は再婚、ユニスは祖父母に育てられるが、学校では「日本人の子」であったためにいじめられた。

1.タナカ チュオドラ  

Teodora Tanaka Maquiling 女

2.193141日(75

3.イロイロ州

4.タナカ モトゾウ(不明)

戦前より父はイロイロで民間人として灌漑設備を作る仕事などをしていた。1928年にフィリピン人女性と結婚、2人の子をもうけた(女1、男1)。その後家族で西ミンドロや西ネグロスに移った。父は戦中日本軍の通訳となり、「パズウノ(パズドス)」という名の山へ入り、そこでフィリピン人の側に立った父は、その後戻ってくることはなかった。

1.イトウ アベラルド            Aberaldo Ito 男

2.1933123日(73

3.南サンボアンガ州

4.イトウ ミツオ(不明)

戦前父はマレーシア・サンダカン〜ホロ島〜バシラン島を渡ってサンボアンガにたどり着き、1924年にフィリピン人女性と結婚、8人の子をもうける(女3、男5)。父はココナツ畑や鉱山などで働いていた。アベラルドは父の知人に「アラキ」という日本人がいたことを記憶している。父は戦争中、日本軍のガイドとなり、その後軍の食料調達時にフィリピン人らと共にいった際、フィリピンゲリラに殺害された。

1.神山 シゲル(アンドレス)            Andres Aguipo Kamiyama 男

2.1925819日(81

3.コンポステラバリー州

4.神山 鴻助(沖縄・名護)

父はダバオで塩、タバコ、砂糖、バナナ、米などをムスリム商人や先住民族と取引する商売人だった。1915年にダバオ先住民の女性と結婚し、9人の子ども(女4、男5)をもうけ、全員に日本名を付けた。ツキコとその兄コサブロウは日本人学校で学んだ。父は戦前マラリアで死亡。沖縄出身の父と思われる名前が外務省外交史料館の海外旅券下付表よりみつかるも、沖縄では戦災で戸籍等が焼失しており、該当人物の本籍にはいきついていない。

1.神山 ツキコ(ローレンシア)              Laurencia Kamiyama Flores 女

2.19221225日(83

3.コンポステラバリー州

4.神山 鴻助(沖縄・名護)

1.タマシロ ヤイコ( アルベルタ)     Alberta Tamashiro Deza 女

2.1943520日(63

3.南コタバト州

4.タマシロ チョビン(沖縄)

父はダバオで漁師をしていた。1937年に結婚、2人の子をもうけた(女1、男1)。戦後、父は船で日本に向かい、以来、音信はない。フィリピン人である母は周囲の反対のために父との同行を断念した。ヤイコの出生証明書には、父の欄に「Chobin Tamashiro, Japan(チョビン タマシロ、日本)」国籍として明記されている。2001年に高血圧が原因で亡くなったヤイコの弟の名前は「ヤイチ」。

1.宮田 コウイチ(エヴェリオ)                   Evelio Torib Miyata 男

2.1932128日(73

3.南ダバオ州

4.宮田 丑太(熊本)

父は戦前西ネグロス州サンカルロスで1920年代より宮田バザールを経営、自転車やバイクを販売していた(『比律賓在留邦人商業発達史』267ページ(大空社発行)に記述有り)。また、トボソに土地を持ち、ココナツ栽培をしていた。1922年に結婚し、6人の子をもうけた(女3、男3)。戦中日本軍の通訳となるが、多くの無実のフィリピン人を弁護。戦争末期、山中で病死した。

1.仲 トシコ(サーカンシシオン) Circuncision Naka Magtulis 女

2.1923121日(82

3.北コタバト州

4.仲 ソウジロウ(和歌山)

父はパナイ島で大工として教会建設などに携わった。1920年に結婚、子どもを4人もうけた(女2、男2)。父は1940年に病死。妹キミコと弟ハルオは終戦後、米軍につかまり日本に強制送還されたが、トシコは戦争中フィリピン人と結婚していたため残留することになる。戦後、日本のキミコから手紙が届いたこともあったが、その後音信はとだえる。キミコとハルオの俘虜銘々票が見つかっている。

1.  カトウ ミサコ(ガブリエラ)

Gabriela Kato Manankil 女

2.1937330(69

3.北コタバト州

4.カトウ ヨシカツ(福島)

父は戦前よりカタルナングランデでアバカ栽培などを営んでいた。1926年に結婚、7人の子をもうける(女5、男2)。ミサコは戦争末期、家族でタモガンの山に敗走中、爆撃で母を、赤痢で父を失う。孤児となった姉妹は山をおり、収容所に収容される。戦後、申立人は姉妹とも離れ、叔母にひきとられ、学校にもいかず叔母の子どもの世話をするなどした。

1.サカキハラ セルヒオ         Sergio Sakakihara 男

2.19281220日(78

3.南サンボアンガ州

4.サカキハラ ディサブロ

(和歌山)

日露戦争の退役軍人であった父は、戦前よりマレーシア・サンダカンから西ミサミス州に移り、大工をしていた。1924年結婚、6人の子をもうけた(女4、男2)。セルヒオは長男。父は戦争中、フィリピンゲリラに殺される。父の死後、日本軍兵士が父の遺品を残らず持ち去ったため、証拠は少ないが、幸運にもマニラ公文書館で、両親の婚姻、セルヒオの出生記録がみつかった。セルヒオは、父の知人に「ニシセイゴ」という日本人がいたことを記憶している。