帰国者プロフィール

身元未判明者に関する情報をお寄せください

連絡先:NPO法人フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)
Tel: 03-3355-8861  Fax:03-3355-8862  E-mail info@pnlsc.com  


申立人顔写真 1.申立人氏名(性別)
  ※日本名

2.年齢(生年月日)

3.申立人居住地

4.父親氏名(父の出身地)
当時の状況、手がかりとなる証拠
1.オオシマ トマサマサエ(女)
TOMASA-MASAE OSHIMA GERALDEZ

2.70歳 (1938(S13)年11月29日)

3.ダバオ市トリル地区

4.オオシマ(不明)
父は戦前に渡比し、アバカ栽培や大工をしていた。1936年(昭和11年)、母と部族婚により婚姻をした。
母の話では、父の姓名について「オオシマ」という姓しか記憶していない。当時、家族はダバオ市トンカランで生活し、申立人はトンカラン日本人小学校で3年生まで学んだ。学校や家では「マサエ」と呼ばれていたということを記憶している。
戦争が始まると、父は農業やドモイ空港の滑走路工事に従事した。戦中、家族は山に避難した。終戦時には、父はダリアオン収容所に収容されたが、家族に会いに出たところをフィリピン人ゲリラによって殺害されたという(叔父の話)。
父の大工道具や申立人の出生証明書は戦争中に盗まれてしまい、今、手元には何も残っていない。母は2003年に死亡,きょうだいは弟が一人いたが1980年に死亡した。
1.ヨシダ レオナルド(男)
LEONARDO OCAMPO YOSHIDA

2.80歳(1928(S3)年9月2日)

3.ヌエバエシハ州カバナトゥアン市

4.ヨシダ (サキチ?)長崎県
父は長崎県出身(姉:コンソラシヨンの出生証明書(1925年(大正14年))に記載)。母の話では、戦前の1919年(大正8年)頃、父はバギオに渡航し、写真家として仕事をしていた。
両親は村の祭りで知り合い、1920年(大正9年)パンガシナン州アラミノス町の教会で婚姻。自宅で写真屋を開いて生計を立てていたという。
1933年(昭和8年)、父は仕事のために家族を置いてビサヤ地方のサマル島に渡る。1、2年は手紙や仕送りが家族の下に送られてきたが、1935年(昭和10年)以降、父からの連絡が途絶えた。
申立人は5人きょうだいで現在妹一人が生存。最近申立人の出生証明書(公文書館から)が見つかり、父名は「Trokisho Yoshida」、職業「Photographer」で陳述書と合致している。
1.ナガタ アイダ(女)
AIDA NAGATA MARIANO

2.71歳(1938(S13)年12月4日)

3.ベンゲット州バギオ市

4.ナガタ イナタロウ(長崎県)
父は長崎県出身(母、姉らの話による)。戦前、父は渡比し,マウンテン州バギオ市で庭師として仕事をしていた。
1917年(大正6年)、父と母はカンカナイ族の部族婚姻をした。この婚姻の写真コピーが残っている。婚姻後、父は米軍基地の庭師となり、家族も基地内で生活をした。
1943年(昭和18年)、父ははしごから転落し、治療の甲斐なく死亡した。
戦中、申立人の兄2人はフィリピン軍に日本人と看做され、収容所に収容された。収容所内で多くの日本人は送還されるそうだ、という話を聞いたが、2人とものちに自宅へ戻された。
申立人には兄3人、姉3人いたが、現在は姉3人が生存。姉一人は日系2世と婚姻。
1.緒方 ナバロノボル(男)
NAVARO-NOBORU BINGKONG OGATA

2.67歳(1941(S16)年8月15日)

3.ダバオ市マリログ地区

4.緒方丈造(熊本県)
父は熊本県出身で、外国旅券下付表記録によると、渡航は1925(大正14)年。ダバオ市カリナンでアバカ栽培に従事。
1929年(昭和4年)に父は母の姉と最初の婚姻(バゴボ族の部族婚)をし異母兄「勝」(戸籍登載あり)をもうけたが、妻はまもなくして死亡したため、1940年(昭和15年)に母と再婚(部族婚)し、申立人が出生した。
戦争が始まると、父は日本軍カリナン義勇軍兵士となった(当時の写真が残されている)。
戦後、父は日本へ強制送還された。その事実から、連合軍作成による捕虜名簿を調査したところ、父についての記載があった。母は2005年に死亡。
1. アダチ コラソン(女)
CORAZON ADACHI ASLOR

2.64歳(1945(S20)年4月19日)

3.ベンゲット州ラトリニダッド町

4.アダチ マサイチ(熊本県)
父は米国社会保険庁アカウント番号申請書の記録によると熊本県出身。
出生年月日は、1905(明治38)年1月16日、父の父はアダチジュンイチ、母の名はアダチ(フジモト)カネとなっている。この書類は戦前にハワイでサトウキビ労働者として働いた時点の書類らしい。
後に、フィリピンへ渡航、米国人経営の鉱山会社デモンストレーションマインズで働いていた。1943年(昭和18年)に両親はバギオで婚姻。戦争が激しくなった申立人出生の1週間前に父は消息不明となった。
戦後「MASAICHI ADACHI」と書かれた封書が家族の下に郵送されてきたが、日本人との婚姻に激しい怒りをもっていた親族により焼却されてしまった。鉱山会社勤務当時の父の友人木口マタイチロウ氏家族が申立人家族と親交があり、当時の状況証言が可能である。母は生存、きょうだいは無く一人っ子である。
1.ヨシムラ レムエルマサル(男)
LEMUEL-MASARU ACUESTA YOSHIMURA

2.66歳(1942(S17)年9月16日)

3.サウスコタバト州コロナダル市

4.ヨシムラ ケンシ(不明)
父は戦前にパナイ島に渡航、漁業や「フジショカドウ」の名でレストラン経営をしていた。
母は教会の伝道師をしており、父とは1936年(昭和11年)教会で婚姻。申立人の他に弟2人が出生。母方の叔父から父の名は「ヨシムラケンシという」と教えてもらった。
戦争が始まると、父は召集され家族はパナイ各地を避難のために転々とした。
終戦時にもすでに父とは連絡が途絶えていたが、母の知人から「終戦時に父はセブ島から日本へ強制送還となった」と知らされた。
母の知り合いも父の写真を所持していたが、戦争で焼却されてしまった。その写真の裏には日本語で父のことが書かれていたという。母は1953年に、弟二人のうち一人が1965年に死亡。
1.サトウ アントニオセイジ(男)
ANTONIO-SEIJI CABCA SATO

2.65歳(1944(S19)年6月29日)

3.ダバオデルスール州スロップ町

4.サトウ(不明)
父は、母の話では沖縄出身。戦前にミンダナオ島サンタバーバラ町に渡航、アバカ、ココナッツ、などを作ったり大工仕事を職業とした。
当時、父のきょうだい一人がダバオ市内のレストランで働いていたようだが、事実関係は不明。父と母は1936年(昭和11年)、カラガ族婚姻をした。
戦争が激しくなって家族・親族は山や洞窟などに避難したが、父と長兄タロウはマラリアに罹患し山中で死亡した。埋葬場所は不明である。母は1998年に死亡。申立人は3兄弟の3男。
1.スズキ マリアコンセプション(女)
MA. CONCEPCION SUZUKI SANTOS

2.64歳(1944(S19)年9月10日)

3.ヌエバエシハ州ペニャランダ町

4.スズキ ヨシオ(京都)
父は、叔母の話によると、京都出身、戦争中マニラ鉄道会社で働いていた、という。同会社で切符売りをしていた母と知り合い1943年(昭和18年)に婚姻をした。
申立人出生直後に祖母は「市場での噂話だが、父はゲリラ襲撃により死亡した」と聞いてきた。それを聞いた母は戦後再婚した。そのため、申立人は祖父母に養育された。
18歳の時、申立人は祖母から、父が母に残したという「タオル」をもらった。タオルには、母の名前がマジックで書かれており、縫い付けられた端の部分をほどいたところ、「鈴岡部隊 鈴木芳男」とマジックで書かれていた。
母は再婚家族と生存、きょうだいは居ない。
※厚労省調査では申立人父の該当近似人物2名あり。※多い姓名の為、決め手無くどちらともいえない。
1.オガワ マチルデフミコ(女)
MATILDE-FUMIKO OGAWA RIMANDO

2.73歳(1936(S11)年3月14日)

3.ダバオ市

4.オガワ ヨシマツ(神戸)
母の話では父は神戸市出身。父は、父の兄と日本からオーストラリアに渡り、その後1917年(大正6年)に一人でフィリピンに渡航。
最初、ベンゲッドで英語通訳として働いた後、バコロドに転職。そこで知り合った母と、1921年(大正10年)に教会で婚姻をした。この当時の職業は大工であった。
1938年(昭和13年)、父は喘息が原因で死亡した。
当時の父の友人に「ヨシダキヨシ」「イワモト」「マツイ」さんらがおり、彼らはフィリピン女性と婚姻して家族を作っていた。
母は戦後も再婚せず子育てをし、1961年に死亡。きょうだいは異母姉含めて7人、申立人(次女)と異母姉1人が生存。
1.オオミネ ミリ(女)
MELY OMINE RAMERI

2.63歳(1945(S20)年11月28日)

3.ミサミスオリエンタル州タリサヤン町

4.オオミネ トクスケ(沖縄県)
父は沖縄出身(叔母の話から)。戦前、ミンダナオ島北部の町タリサヤン町に来て、「しんそうろう」という網を使った漁法による漁業に従事していた。
当時、その土地に居て漁業に従事していた日本人たちは全員、母の両親(祖父母)の家に住まわせてもらっていた。そこで父は母と知り合い婚姻をした(1939(昭和14)年)。
叔母は父宛に沖縄からの手紙が届いているのを覚えている。
戦争が始まると父を含む日本人たちはフィリピン人によってコタバト州ピキッド町に連行収容されたが、日本軍上陸によりすぐに解放された。以来父はカガヤンデオロ市にあった日本軍キャンプに住み、軍の手伝いをしていた。
戦争が激化すると家族はブキッドノンに避難したが、父は日本軍と共に、コタバト方面に向かったまま、やがて連絡が途絶え行方不明となった。
母は1988年死亡、申立人は三姉妹の三女。
1.ウエハラ レオノラシゲコ(女)
LEONORA UEHARA OMAR  

2.69歳(1940(S15)1月13日)

3.マギンダナオ州パラン町

4.ウエハラ タクイシ(沖縄県)
父は戦前にネグロス島シキホールに渡り、魚の仲買人を仕事にしていた。父はシキホール出身の母との間に3人の子をもうける。
弟キンタロウの出生証明書には、父の氏名ウエハラ タクイシ、国籍日本、父の出身地沖縄、宗教仏教徒、職業商人と記載されている。
戦争が勃発すると、日本人であることで身の危険を感じた家族は、ネグロス島ドゥマゲティにあった日本軍駐屯地の隣に避難、そこで生活をした。同駐屯地には父の従兄弟、「カマペ」が住んでおり、家を度々訪問した。
父は重い喘息を患い1945年に自宅で息を引き取った。父は亡くなる前に「従兄弟のカマペと連絡をとり、助けを求めるように」と遺言を残したが、戦中の混乱により連絡を取る術がなかった。
1970年代より兄弟(二人は既に死亡)と父の身元捜し行ってきたが、未だ判明に至っていない。
1.ナカソネ ノルマクミコ(女)
NORMA -KUMIKO BANSAG NAKASONE

2.69歳(1939(S14)年8月7日)

3.サンボアンガデルノルテ州ダピタン市

4.ナカソネ ヤマ(沖縄県)
父は戦前にミンダナオ島ダバオ市トリル、バヤバスに渡り、アバカ栽培に従事した。
母の話によると、父は沖縄県那覇出身、渡比以前に日本人女性と婚姻し二人の子をもうけたが、妻の死後、長男を伴いフィリピンに渡った。父はバゴボ族出身の母と知り合い、1938年に婚姻、4人の子をもうけた。
戦争が始まると父はフィリピン軍に捕まり、拷問の際に受けた傷が原因で絶命した。
父の死後、残された家族は避難生活を送るが、当時2歳だった妹ヨシコは避難中に亡くなった。日本から連れて来た長男は消息不明となっている。
20年前より父の身元捜しをしてきたが、未だ判明に至らない。
1.中村 ヨシイチアベリーノ(女)
AVELINO NABLO NAKAMURA
※就籍許可2009年6月3日

2.69歳(1940(S15)年4月5日)

3.イロイロ州エスタンシャ町

4.仲村(渠)義助(沖縄県) 
父は戦前に従兄弟・中村じろうとともにフィリピン、パナイ島へ渡り、現地で漁業に従事した。
父とパナイ島出身の母との間には子供が3人(兄と妹二人)。終戦直後に日本へ強制送還され、妻と子どもたちはフィリピンへ残される。
戦後30年が経過し、父はフィリピンに残された家族を捜しあて、フィリピンで子どもである申立人2人と再会を果たした(母は生活の為、フィリピン人と同棲しており、その為か父との再会時には同席しなかった模様)。
父は子供たち3人を日本・沖縄へ呼び、生活をともにする事を約束していたが、呼び寄せを仲介した人物にお金を騙しとられ、子どもたちが日本へ行くことは実現しなかった。
1984(昭和59)年以降は父との連絡が途絶えてしまった。父の住所は判明したものの、父、そして本人が入るべき戸籍の所在が不明であり、本人の国籍を証明できないでいる。母は2000(平成12)年に死亡。
1.(1世配偶者)カタリーナ デラクルス (女)
CATALINA DELA CRUZ

2.83歳(1926(T15)年11月25日)

3.コタバト市

4.タカミネカツオ(夫)(沖縄県)
夫から「沖縄出身である」と聞いている。戦争が勃発する2年前に大工の棟梁としてミンダナオ島コタバト市に渡った。
夫とは、近所にフィリピン人との間に家族を持っていた「タケウチ」という日本人を通じて知り合い, 1941年に婚姻。
夫を「カッツン」と呼び、二人の間では現地語チャバガノ語で会話をしていたが、夫から片言の日本語を教わった。二人はヒロコという一人娘をもうけた(2003年に他界)。
戦争が激しくなると、本人は娘ヒロコとともに疎開、夫は仕事を続けるためにコタバト市内に残った。
終戦近くになり、夫は連合軍の捕虜となり、ほかの日本人と一緒に近隣の強制収容所に連行された。以降、夫との連絡が途絶えた。
娘ヒロコは、生前生き別れとなった父にひと目会うことが夢だった。
1.安谷(仁)屋 ロドルフォセイイチ(男)
RODOLFO SABADO ADAÑA

2.68歳(1940(S15)年9月2日)

3.カビテ州バコール町

4.安谷(仁)屋成之助(沖縄県)
母の話では、父は沖縄出身。父は他の沖縄出身日本人達と渡航しその記録が外務省保管史料にある。
1938(昭和13)年テルナテで婚姻,子どもが二人(兄と妹)生まれた。兄の日本名はセイイチ、妹はヨシコ。父の父(祖父)もフィリピンで漁業をしていた,と母から聞いている。
開戦となった頃に祖父の姿が見えなくなり、連絡が途絶えた。マニラに日本軍、米軍が交互に占領するようになったため、母子がマニラ近郊へ避難している間に父との連絡が途絶えてしまった。
戦後日本人と婚姻したフィリピン人女性の協力の下、父の身元捜しをして、父の親族と思われる人物まで辿りついたが、その後、調査を継続するお金が無くなり、そのままになってしまった。母は1984年に死亡。
1.安谷(仁)屋 トリニダッドヨシコ(女)
TRINIDAD YOSIKO ADAÑA

2.66歳(1942(S17)年12月13日)

3.カビテ州バコール町

4.安谷(仁)屋成之助(沖縄県)




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