帰国者プロフィール

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連絡先:NPO法人フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)
Tel: 03-3355-8861  Fax:03-3355-8862  E-mail info@pnlsc.com  


申立人顔写真 ① 申立人氏名(性別)
   ※日本名
② 年齢(生年月日)
③ 申立人居住地
④ 父親氏名(父の出身地)
当時の状況、手がかりとなる証拠
① イラ ヨランダ(女)

② 65歳(1945年5月5日)

③ ダバオデルノルテ州ダバオ市

④ イラ トソ(神戸)
父はミンダナオ島サンボアンガ州バリワサンで「ダイルマル」という漁船のキャプテンをしていたイラ トソ。1944年5月31日にフィリピン人女性ベニータ マクロホンと民事婚。証書には「Ira Toso Japanese 34 Years old」,両親の名は母「Yoh Ira Japanese」,父 「Shiro Ira Japanese」とある。戦前に父は消息不明となり,父の顔を見ずして申立人は育った。母は中国人と再婚し,申立人は継父を本当の父だと思っていた。しかし,高校生の頃母から父が日本人であると知り,自身のアイデンティティーについて考えるようになった。
① カスミ マリア フェ(女)

② 67歳(1942年10月27日)

③ 南コタバト州ジェネラルサントス市

④ カスミ ジュンイチ(沖縄)
父はパナイ島カピスでろうそくや薬用油の行商をしていたカスミ ジュンイチ。1941年12月にフィリピン人女性アグスティナ アルバレスとアイタ族の方式により結婚。戦争が始まると,父は軍人となり,1945年の戦闘で行方不明となった。戦後,日本人の家族として敵対視され,地元を離れ親子でミンダナオ島の親戚に身を寄せた。申立人は学校に行くことができず,家事手伝いをした。
① コダマ ヘルミニア(女)

② 68歳(1942年8月9日)

③ ミサミスオリエンタル州バリンガサグ町

④ コダマ ケンイチ/キンイチ(不明)
父はミンダナオ島カガヤンデオロでいくつもののバザールを経営していたコダマ ケンイチもしくはキンイチ。1941年1月10日,フィリピン人女性ロベルタ サラルダとの間にヘルミニアをもうける。戦中,父は日本兵になったとの話を聞くが実際は不明。人づてに「子どもが女の子だったら看護婦に,男の子だったら軍人に」と言い残し,消息が不明になる。父の顔を見ることなく,申立人は育ったが,日本人の子だということは周囲にも知られており,戦後辛い目に遭ってきた。
① 小林 ロレン(女)
※マサエ

② 83歳(1927年2月20日)

③ コンポステラバレー州マビニ町

④ コバヤシ (熊本)
父はミンダナオ島のピンダサンでアバカ栽培に従時していたコバヤシ(以下不明)。1925年にフィリピン人女性アシンダ マカバタスとムスリム族の方式により結婚。両親は地元の言葉(チャバカノ語やビサヤ語)で会話をしていた。戦中,父は米軍の爆撃に遭い死亡。日本人の知り合いとして,オカヤマさん,シンガワさん,オコボ(オオクボ?)さん,ヒラノさん,コハラさんがいる。
① サカモト ハシント(男)
※ケンチャン

② 70歳(1940年1月30日)

③ マニラ首都圏バレンズエラ市

④ サカモト ノリオ(大阪)
父はルソン島ブラカン州のビール会社で働いていたサカモト ノリオ。1939年5月13日にフィリピン人女性チュオドラ トンコと結婚。婚姻証明書には「ノリオ サカモト 29歳 日本,大阪」と記載されている。ビール会社の日本人同僚との遠足の写真が今でも残っている。戦中,父は消息不明となり,戦後は母と妹と雑貨店で生計を立てる。迫害を避けるため,父の姓は敢えて隠し,フィリピン名を名乗ってきた。
①  シゲトミ フアニタ(女)

②  65歳(1944年11月16日)

③ ベンゲット州バギオ市

④ シゲトミ(不明)
父はルソン島北部のベンゲット州ラトリニダッドにてレタスやジャガイモの栽培に従時していたシゲトミ(以下不明)。「オメダ タダシ」という友人がいたが消息は不明。1943年9月5日にフィリピン人女性タグタグ アトンビとイゴロット族の方式により結婚。結婚式に参加した証人もいる。母によれば,父には日本に妻と娘1人がいるとの話。その妻との死別や離別については不明。申立人は日本語の歌を歌うことができる。父の姓「シゲトミ」をずっと使って生きてきた。
① ノナカ ノナ(女)

② 65歳(1945年1月13日)

③ イロイロ州サンラファエル町

④ ノナカ(不明)
父は戦中,軍人としてネグロス島にやってきたノナカ ユディチ。「キャプテン ノナカ」として知られていたという。1943年11月20日,フィリピン人女性パトリア エスカロナとカトリックの方式によって結婚。叔母が10歳のときに結婚式に参加したことを記憶している。父は戦中行方不明になり,申立人は父の顔を見ることなく育った。日本人の子という事実は周囲に知られていたため,いじめに遭った経験を持つ。
① 広瀬 ヘロニモ(男)

② 65歳(1944年9月30日)

③ セブ州リロアン町

④ 広瀬 留吉(京都)
父は戦中,軍人としてセブ島リロアンにやってきた広瀬留吉。1944年9月30日にフィリピン人女性アヌンシャション カバフグとの間に申立人が生まれた。申立人が生まれる前に父は消息不明となった。

① 河田 サテ(女)

② 69歳(1941年4月6日)

③ ギマラス州ブエナビスタ町

④ 河田 浅一(広島)
1世父は戦前,イロイロ市の「リアルバザー」という商店で働いていた河田浅一。売り子として働いていた母サビニアナと出会い,1938年10月18日に判事の下で市民婚。長女サテが1941年に生まれたが,しばらくして夫は「マニラに行く」と言って外出,そのまま戻らず暫くして日本から手紙と写真が送られてきた。写真は軍服姿の父。手紙には英語と現地語で「戦争が終わって私が生きていたら必ず戻る」と書かれていた。赤ん坊のサテに母乳の出ない妻に代わって粉ミルクをあげるやさしい夫だった。残された妻は幼子とともに夫の帰りを待ち続けたが、親戚の強い勧めでフィリピン人と再婚。結局1世は中国方面に出兵し,戦死していたと後に判明した戸籍で知る。





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