ヨシカワ メリシアさん(89)

1918年 マウンテン州サガダ生。
父=ヨシカワ マサタロ、母=フィリピン人(イゴロット族)Carmen Cal-ling 
婚姻記録によればマサタロの父はM.ヨシカワ、母はH.ヨシカワ。
メリシアは9人兄弟の2番目で兄フランシスコ、弟妹ベニート、ロサリア(ハナコ)、アルフレド、マヌエラ、レオンシオ、ダニエル、アルテミオがいる。父は大工で、ケノンロード建設に関わった後、ベサオの教会、病院建設に従事。1914年Carmen と結婚し、サガダに移った。
 「父は家でケチャモチ、センベイ、味噌などを作り、私たち子どもがそれらを売り歩いたことを覚えている。時々ボントックから日本人が父を訪ねてきていた。やがて父はお腹の病気になり1932年1月17日、66歳で亡くなった。サガダのもう1人の日本人ヤマシタさんやボントックの日本人たちが来て父のお葬式をしてくれた。彼らは私たちをかわいそうに思って食物や洋服をくれた。私は1934年、15歳でサガダ出身のフィリピン人男性と結婚、夫の両親と暮らすようになった」
 「戦争中は夫と夫の両親、子どもとともにサガダの山に避難し、2年間くらい生活した。雨露をしのげるよう家の屋根をはずして持っていった。山ではコメや芋を植え、芋を乾燥させて粉にして保存食にした。戦争が終わって山に戻ると、日本軍の基地がまだあり、私たちはそこに食べ物を持っていった。彼らは親切で、日本兵の1人が私たちに歯ブラシと針をくれた。米軍が来て、日本軍はいなくなった」
 「父は長崎出身と言っていた。父の戸籍が見つからないのは長崎が原爆を受けたためだと思う。とても残念だ。私はヨシカワマサタロの子どもとして認めてもらいたい」


サカモト フミコ(フアニタ)さん(80)

1927年 ブラカン州バリワグ生。
父=日本人サカモトテキチ、母=フィリピン人Maria Rosalio Dela Cruz。
フミコは長女で、下に6人の弟妹(カルメリータ、コンチタ、ホセ、ノルマ、エステル、ロシータ=キョウコ)がいる。婚姻記録によれば父テキチの父はサカモト カド、母はキミ。
 「父は戦前ブラカンで商売(キャンディーやアイスクリームのコーンを作って売る仕事)をしていて母と結婚した。父は広島生まれで、3人兄弟の真ん中だと言っていた。知り合いにマツキダという日本人がいた」
 「戦争が始まり、父は捕らえられブラカンの役場に収容されたが日本軍上陸後、解放された。父は日本軍の通訳となり、家族と離れた。父はイポダムで敗戦を迎え、ラグナ州カブヤオの強制収容所に入ったらしい。収容所の父から手紙がきて、「自分は日本に送還されるがその前に会いに行く。あなたたちの写真がほしい」と書いてあった。しかし父は戻らなかった。多分交通費を工面できなかったのだと思う。戦後、父から何の連絡もない。父が日本に帰国できたのかわからない。私は日本人の子として認められたい。そして子どもたちが日本に働きに行けるようになることを望んでいる」


アリチ スミコ さん(76)

1931年 バコロド市生。
父=日本人アリチコーヤ(広島出身)、母=フィリピン人ConsueloBinega。父は戦前バコロドで大工、機械工をしていて、近所に住むConsueloとバコロドのカテドラルで結婚。兄(オスメーニョとコシロ・・・2人とも戦前死亡)、姉すみれ、弟コチ(コーイチ?戦前病死)の5人兄弟。
父は1937年頃パナイ島カピスの鉱山で爆発事故にあい死亡。葬儀もした。戦争中は母、姉、日本軍および他の日本人の家族とともに山に逃げ、生き延びた。
 「父はやさしい人で、私を『すみこ』と呼んでいた。戦争初期の頃、日本人の子どもはヨネモチ先生の家に集められて日本語を勉強した。私も当時かなり日本語ができたが、ずっと使わなかったので忘れてしまった」「日本軍はバコロド市全体を崩壊させようとし、その前に日本人家族を山に連れて行った。私は母と姉、モロナガ、タナカ、トーゲなどの日本人の家族とともに山に入った。山では米軍の爆撃を逃れて移動したが、移動したすぐ後が爆撃を受けることもよくあった。怪我をした人が血を流しながら『アリチさん助けて』と呼ぶのを横目に逃げた。私自身も左腕に弾が当たり、怪我をした。野戦病院で日本人医師に手当てしてもらったが、その傷痕は今も残っている」
 「米軍が上陸し、日本が負けたとの知らせを聞いた。一緒にいた日本人女性たちは『あなたたちはフィリピンの血が入っているから山を下りて帰りなさい。私たちはここに残ってハラキリする』と言い、1人の女性が紙に日本語で何か書いてくれた。『途中、日本兵に会ったら見せるように』と言われた。山を下りると米軍のトラックに乗せられ収容所に入れられた。フィリピン人は日本人に怒っており、石を投げられた。収容所には3日間いたが、母の弟が迎えにきて、出ることができた。戦後ずっと日本人ということを隠してきたが、私は戦争中のこの体験を忘れることはできない」


ヤマナカ カルメンさん(87) ヤマナカ イサベロさん(80)
ヤマナカ カルメン(84) 1920年生まれ。
ヤマナカ イサベロ(77) 1927年生まれ。
父=日本人ヤマナカウイチ、母=フィリピ人Jacova Albior  カルメンは長女。その下にフアン(1922年生。故人)、アレハンドロ(1925年生)、イサベロ、パヒタ(1931年生)、ベニト(1936年生。故人)、エフレン(1938年生)がおり、7人兄弟。  
 「母の話によると父は15歳でフィリピンに渡り、サンバレス州オロンガポに来た。18歳で米軍基地に職を得たが、母(Jacova)とオロンガポの教会で結婚すると、基地の仕事を辞め、母の田舎サンバレス州サンアントニオで建築の仕事を始めたそうだ」
 「父は建築の腕に優れ、サンバレス近辺で大きな建物を沢山建てた。30人くらいフィリピン人を使っていて、彼らの給料を計算するのに丸い小さいものがたくさんついた道具(注:そろばん)を使い、指をすばやく動かしていた。家には低いテーブルがあり、椅子はなく、父は床に座っていた。時々「スキヤキ」を作ってくれた。クリスマスには父が自分でつくった杵と臼でもちつきをした。父は魚を生で、生姜をつけて食べていた。私たちも食べたがおいしかった」
 「戦争になり、日本人とドイツ人はすべてマニラで投獄された。父もマニラに連れて行かれたが、日本軍上陸後戻ってきた。サンバレスのブトゥラン鉱山で働くようになった。時々近くの日本軍の基地で通訳をしていた。やがて腎臓の病気になり、1945年1月2日に自宅で死亡。葬儀もし、墓石には死亡年月日と父の洗礼名(Jose Yamanaka)とが書いてある。私はそのとき17歳だった」
 「私は父を尊敬していたから、父と同じ大工になった。日本の父の親戚に会ってみたい。かなうなら父の国、日本を一度見てみたいと思う」 




NPO法人 フィリピンリーガルサポートセンター