2009年7月7日〜13日 集団一時帰国 帰国者プロフィールはこちら


就籍申立者の一覧

アリチ スミコ
(比名エステリタ)
生年月日 1931/2/12 父氏名(出身) アリチ コウヤ(広島県)
出生地 ネグロスオキシデンタル州バコロド゙市 母氏名 ビニェガ、コンスエロ
現住所 マニラ首都圏カロオカン市 父の職業 大工→鉱山で働く
申立 2005/10/12 離別状況 戦前、父が鉱山の事故で死亡
事件番号 平成17(家)第9147号 2世の戦後 母が物売りをして生計を立て養育
来日 2005/10/1 身元 未判明
許可 証拠等 本人出生証明書および亡き弟の出生証明書、亡き姉の出生証明書(いずれもオリジナル)、戦前の家族写真

ハマモト マサキ
(比名エピファニオ)
生年月日 1932/6/10 父氏名(出身) ハマモト マサアチェ
出生地 ネグロスオキシデンタル州サガイ市 母氏名 ソベラノ、ベアトリス
現住所 サンボアンガシブガイ州シアイ 父の職業 インシュラーランバーという製材会社勤務
申立 2005/10/12 離別状況 戦中、フィリピン人ゲリラの襲撃にあい死亡
事件番号 平成17年(家)第9151号 2世の戦後 母が2世を養育
来日 2005/10/1 身元 未判明
許可 証拠等 1世婚姻に関する共同宣誓供述書、本人出生証明書(遅延登録)

山本 ビクトリア
生年月日 1929/7/28 父氏名(出身) ヤマモト (名不詳、洗礼名ホセ)
出生地 マニラ首都圏マニラ市レクト 母氏名 アドビンクラ シリカ
現住所 マニラ首都圏バレンスエラ市 父の職業 飲食業、運転手
申立 2007/7/31 離別状況 1936年にマニラで死亡
事件番号 平成19年(家)第6699号 2世の戦後 結婚後ブラカン州で夫と生活
来日 身元 未判明
許可 証拠等 父母の婚姻証(オリジナル) 2世の出生証(遅延)、兄弟の出生証(オリジナル)

榊原 セルヒオ
生年月日 1928/12/20 父氏名(出身) サカキハラ ディサブロ(和歌山県)
出生地 ミザミズオキシデンタル州クラリン町 母氏名 カホテ シンプリシア
現住所 サンボアンガ州タクラン町 父の職業 大工
申立 2006/8/30 離別状況 1943年頃、フィリピン人ゲリラによって殺害
事件番号 平成18年(家)第8011号 2世の戦後 母が1946年に死亡。本人が兄弟を養育
来日 2006/10/12 身元 未判明
許可 証拠等 父母の婚姻証明書、本人の出生証明書(いずれもオリジナル)

小林マサエ ロレン
生年月日 1927/2/20 父氏名(出身) コバヤシ(名不詳) (熊本県)
出生地 コンポステラバレー州ピンダサン 母氏名 アシンダ マカバタス
現住所 コンポステラバレー州マビニ 父の職業 農業
申立 2007/7/31 離別状況 戦中死亡
事件番号 平成19年(家)第6696号 2世の戦後 母が養育
来日 身元 未判明
許可 証拠等 父母の部族婚証明書、宣誓供述書

森口 フィデラ
生年月日 1942/4/24 父氏名(出身) モリグチ(名は不詳)
出生地 ダバオオリエンタル州カラガ 母氏名 ベノグスタン ユラリア
現住所 同上 父の職業 雑貨商
申立 2007/7/31 離別状況 戦中行方不明
事件番号 平成19年(家)第6698号 2世の戦後 母が養育
来日 2008/7/15 身元 未判明
許可 証拠等 父母の婚姻宣誓供述書、本人の洗礼証明書



フジ・グロリアさん(71)

フジ・グロリアさん 1936年 ネグロスオキシデンタル、イロッグ生まれ。
父=日本人フジ(フジェ?)(東京出身)
母=フィリピ人Gloria Pallares 

グロリアさんは7人兄弟の6番目。兄アルフォンソ(1919年生)、マクシモ(1926年生)、ロドルフォ(1928?年生)、姉エメリタ(1924年生)、ナンシー(1928年生)、妹ノルマ。妹を除いてすべて死亡している。 

父は、西ネグロス州にて大工として働く。戦中、バコロドの捕虜収容所に入り、おそらく日本へ強制送還。。
 「私たち家族は、西バコロドのイロッグで2階建ての家に住み、一階部分は食堂として母が働き、父はフィリピン人労働者を使って大工の棟梁をしていました。」

  「日本占領期、父は日本軍の通訳になり、バコロド市の日本軍駐留地で寝泊りしていました。私の兄は、父のいとこのコガさん宅で生活し、私と姉はバコロド市内の日本語小学校に通いました。私の兄二人はフィリピン軍の兵士だったため、父は兄たちがいる地域に入ることを避けました。「フィリピン軍と撃ち合いになって子どもを殺してしまいたくない。」と言っていました。」

  「アメリカ軍が到着したころ、父は『いよいよ状況が怪しくなってきた。みんな無事でいるように。殺されないように、日本人の子であると言わないように』と言い、日本人の避難所があったマラパラ山に一人で行ってしまいました。」

  「その後、マラパラ山のアメリカ軍の空爆で、父が捕虜になったと聞き、母は私たちを連れ、バコロドの収容所に行きました。収容所の周りには電気の通った鉄縄門が張り巡らされており、私たちはその外に立ちました。父は草取りの作業をするフリをして私たちの近くまで来て、言いました。『たぶん私は一週間だけここにいて、その後は船で日本に帰らされる。みんな、お母さんを大切にしなさい。小さい子どもたちは、兄弟仲良くするように。』私たちは皆そこで泣きました。」

  「父が言ったとおり、その後日本人はいなくなり、父の消息はわからなくなってしまいました。私は、父の写真を一枚だけ持っています。母は洗濯婦をして私たちを育てました。」

オオキダ・テレシタさん(3世)

オオキダ・テレシタさん(3世) 
父はオオキダ・ビセンテ(2世) 1907年10月ベンゲット、ラ・トリニダッド生まれ。一人息子。戦中の1944年に自殺。

祖父(1世)=日本人オーケラ(オオキダ?) 
祖母=フィリピン人(イゴロット族)Kanaya Avalos   

祖父は、避暑地バギオへつながるケノンロードの建設に従事したと見られ、その後、バギオ、ベンゲットで農業を営む。1912年ごろ、日本へ帰国したまま戻らず。
 「祖父はケノンロードの建設の後、バギオ市に来て、セッションロードで赤飯の行商をしていた祖母と知り合い、駆け落ちをしました。その後、イゴロット族の伝統に従い結婚式を挙げ、ベンゲットに住みました。祖父は皆に野菜の栽培や家畜の糞で肥料を作ることを教えました。私の父が5歳くらいのとき、祖父は帰国し、そのまま日本で亡くなったそうです。」

「父は近所に住む中国人に引き取られ、その後、フィリピン人の下で働きながら学校に行き、やがて結婚、私が生まれました。父は農業のかたわら、家で大人たちに識字教育を行ったため、皆は選挙でも投票できるようになりました。」

「その後戦争が始まり、日本軍は父を含む村のすべての男性を捕まえ、一週間拘束しました。父が帰ってきたとき、まったくしゃべれなくなっていたのを憶えています。母方の祖父は、父が正気に戻るよう宗教儀式を執り行いました。フィリピンの男たちは抗日兵士になりましたが、父は拒否しました。」

「日本占領下、私の父は日本軍の下、フィリピン人市民に通行許可を与えるなどの仕事をしました。父は日本兵にもフィリピン兵にもよくし、求められれば米や鶏も与えていました。しかし父はフィリピン人に、日本人のスパイとの疑いをかけられました。1944年ごろ、父は友人の家でカトウマツゾウ、カトウシチゾウ、フチガミとよく話し合いをしていました。ある日、父は私の部屋の中で首を吊り自殺しました。父の自殺後、父の友人カトウマツゾウ、カトウシチゾウも次々と自殺しました。しきたりにより、私たちの家は焼きはらわれました。」




NPO法人 フィリピンリーガルサポートセンター