フジ・グロリアさん(71) |
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フジ・グロリアさん 1936年 ネグロスオキシデンタル、イロッグ生まれ。
父=日本人フジ(フジェ?)(東京出身)
母=フィリピ人Gloria Pallares
グロリアさんは7人兄弟の6番目。兄アルフォンソ(1919年生)、マクシモ(1926年生)、ロドルフォ(1928?年生)、姉エメリタ(1924年生)、ナンシー(1928年生)、妹ノルマ。妹を除いてすべて死亡している。
父は、西ネグロス州にて大工として働く。戦中、バコロドの捕虜収容所に入り、おそらく日本へ強制送還。。 |
「私たち家族は、西バコロドのイロッグで2階建ての家に住み、一階部分は食堂として母が働き、父はフィリピン人労働者を使って大工の棟梁をしていました。」
「日本占領期、父は日本軍の通訳になり、バコロド市の日本軍駐留地で寝泊りしていました。私の兄は、父のいとこのコガさん宅で生活し、私と姉はバコロド市内の日本語小学校に通いました。私の兄二人はフィリピン軍の兵士だったため、父は兄たちがいる地域に入ることを避けました。「フィリピン軍と撃ち合いになって子どもを殺してしまいたくない。」と言っていました。」
「アメリカ軍が到着したころ、父は『いよいよ状況が怪しくなってきた。みんな無事でいるように。殺されないように、日本人の子であると言わないように』と言い、日本人の避難所があったマラパラ山に一人で行ってしまいました。」
「その後、マラパラ山のアメリカ軍の空爆で、父が捕虜になったと聞き、母は私たちを連れ、バコロドの収容所に行きました。収容所の周りには電気の通った鉄縄門が張り巡らされており、私たちはその外に立ちました。父は草取りの作業をするフリをして私たちの近くまで来て、言いました。『たぶん私は一週間だけここにいて、その後は船で日本に帰らされる。みんな、お母さんを大切にしなさい。小さい子どもたちは、兄弟仲良くするように。』私たちは皆そこで泣きました。」
「父が言ったとおり、その後日本人はいなくなり、父の消息はわからなくなってしまいました。私は、父の写真を一枚だけ持っています。母は洗濯婦をして私たちを育てました。」
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